ごあいさつ

西浦兼和 私達が、ここ京田辺市に事務所を設け、活動を開始して28年になります。 その間、住所も綴喜郡田辺町大字薪小字西山から京田辺市薪西山に変わりました。近くに山手幹線道路も開通し、のどかであったあった近隣の田園風景も住宅街に変化しました。
しかし、地域に密着した信頼される建築技術者集団を目指してきた私達の想いは、今もまったく変わっていません。優良な建築物は、どうしたら生まれるのでしょう。素晴らしい設計であっても劣悪な施工がなされたら・・・緻密で大洲衛事務所良好な施工がなされていても、陳腐な設計であったなら・・・決して優良な建築物は誕生しないでしょう。当初、一級建築士事務所としてスタートをした当社が、一般建設業の許可を得、合わせて宅地建物取引業者の免許を取得したのは、すべて私達の想いを、より総合的に実現するためでありました。

私は、9年前に創業者である現会長から代表取締役を引き継ぎました。 『西浦、後は君が思ったとおりにやりなさい。大洲衛の社名も、君の好きな社名に変えたらよろしい』と言われました。  私は考えました。『継続は力なり!』と。それまでに大洲衛は地域での知名度をそこそこ得てきておりました。それに私自身『大洲衛』という名前が好きでした。設計事務所なのか、工務店なのか、不動産屋なのか、社名だけでは何業か分からないとこ家づくりメンバーろが一番気に入っていたのです。今後とも、建築技術者集団という大洲衛のポリシーを失うことなく努力を続ける覚悟です。
今後とも、宜しくお願い申し上げます。

ページトップへ

大洲衛ってどう云う意味??

ダイスエと読んで下さい。
古めかしい漢字の『大洲衛』という社名について説明させて下さい。  創業者で現会長・森田九洲雄の母方の祖父に、石田末吉と云う人がいました。この人は、日露戦争に従軍し、実際に一兵卒として戦ったと言いますから、正に『坂の上の雲』の時代を生き抜いた人です。その後、京都の伏見で、大工の職人から身を起こし、大工の末吉であるから、『大末』と云う屋号で工務店を開業しました。今は取り壊して建て替わっていますが、乃木神社の脇にある桃山小学校の旧木造校舎を建てた、と言いますから、そこそこの規模の工務店だったのでしょう。この石田末吉と云う人は51歳で亡くなりました。遺された妻と7人の子供達も、当時死病と云われた結核に冒され次々と亡くなり、生き残ったのが長女の志津と、末子の寿美子の二人だけでした。志津は森田に嫁ぎ、寿美子は伊原に嫁ぎましたので、石田は廃家となってしまいました。森田家の三男である現会長・森田九洲雄が、剣道一家である森田家で育ちながら、ぜんぜん畑違いの建築業界に身をおくことになった時、『これもお爺さんの因縁かな・・・?』とフッと感じたといいます。

 現会長・森田九洲雄が独立して創業するとき、そのことを思い出し、それなら自分がお爺さんの事業を、2代目は無かったとしても、3代目として継いでやろうと考えました。しかし、その時すでに『大末組』という有名ゼネコンさんがありましたので、ダイスエという音だけ使うこととし、漢字の『大』は、文字通り大きいを意味し、『洲』は自分の名前から一字とり、『衛』の字は森田家のご先祖様から頂いたといいます。

 平成13年に、代表取締役を現会長・森田九洲雄から西浦兼和に引き継ぐ時、『大洲衛』と云う社名は、森田九洲雄の個人的思い入れの強い、古めかしい名称だから、この際、西浦の思い通りの名称に社名変更をしたらどうか、と云う森田会長の提案に対して、西浦新社長は『私は、この名前が好きです。今後とも地域に浸透した大洲衛の名前を守っていきたい。』と言いました。

 京田辺に拠点を構え25年、地域では『ダイスエさん』と、さん付けで呼ばれて親しまれています。このことに感謝し、今後とも努力を続けて行きたいと考えております。

ページトップへ
>Design by 無料ホームページ素材 | Flash素材 | 格安ホームページ制作